
日本は果たしてどのように成り立ってきた国なのか?ほんとうに単一民族なのでしょうか?
超ロングスパンで、日本という国の成り立ちを年表形式で探っていきたいと思います。
300年代(4世紀)
ヤマト王権の誕生と渡来人の到来
369年頃
朝鮮半島の百済王から日本の王へ「七支刀」が贈られる。
当時、北の強国・高句麗の脅威に晒されていた百済が、ヤマト王権に軍事同盟(援軍)を求めるため、最先端の鉄鋼技術で作った至高の宝剣を贈ったとされています。この時代に「リアルな外交関係」を結んでいたことを示す日本最古の決定的な物証です。
参考サイト:ご由緒【七支刀(しちしとう)】|石上神宮[いそのかみじんぐう]公式サイト|奈良県天理市
372年
弓月王(ゆんずのきみ)が多くの民を率いて帰化。
弓月王は、秦始皇帝の末裔とされ、百済に暮らしていたリーダーです。
当時、半島の激しい戦乱から一族の安全を守るため、日本への亡命を決意。彼を慕う1万8千人もの民を丸ごと引き連れた、国境を越えた命がけの大移動でした。 のちに孫の秦酒公(はたのさけきみ)らとともに、養蚕や絹織物、高度な土木などの先進技術を日本に伝え、大活躍します(これがのちの「太秦」の地名の由来となりました)。
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391年〜
ヤマト王権が朝鮮半島へ進出。北部の強国「高句麗(こうくり)」と激しい戦争を繰り広げる。
誕生したばかりのヤマト王権(当時の日本の大王たち)が、国家の近代化にどうしても必要な「鉄資源」や「最新の技術・文化」を直接手に入れるため、組織的に海外へ兵を送り出した。伝承(神話)では、この前後に伝説の女性リーダー「神功皇后」が軍を率いて海を渡ったとされています。 この日本(倭)の海外進出と激しい戦いについては、高句麗の視点から、中国と北朝鮮の国境付近にある「高句麗好太王碑(こうくりこうたいおうひ)」という巨大な石碑に記録されている。
400年代(5世紀)
巨大古墳のピークと「ワカタケル(雄略天皇)」の時代
巨大古墳の全盛期:
仁徳天皇陵に代表される、王の権力を象徴する超巨大な前方後円墳が次々と造られた。
強力な王の全国支配:
関東から九州まで支配を広げた「ワカタケル大王(雄略天皇)」が、国内の統治をガッチリと固めた。
国際アピールと渡来人の活躍:
「倭の五王」として中国へ使者を送り、同時に多くの渡来人が持つ最先端技術で国を近代化させた。
413年〜478年
「倭の五王」が中国(宋)へ次々と使者を送る(『宋書』に記録)。 ヤマト王権の5人の王たち(讃・珍・済・興・武)が、朝鮮半島での外交ルートや自国のポジションを優位にするため、中国の皇帝へ計9回も熱心に使者を送りました。
500年代(6世紀)
仏教の伝来と「蘇我氏」の台頭
538年(または552年)
百済から仏像や経典が届き、仏教が伝来。
百済(くだら)の聖明王から欽明天皇へ、仏像や経典が贈られ「仏教が公に伝来」。
これを受け入れるかで蘇我氏(崇仏派)と物部氏(排仏派)が対立。
587年
蘇我馬子が物部氏を滅ぼし、蘇我氏が政治の全権を握る。
593年
日本初の女帝・推古天皇が即位。
甥の聖徳太子が摂政となり、蘇我馬子、秦氏(秦河勝)と協力して「天皇中心の国づくり」をスタート。
※秦河勝は、聖徳太子の信頼できるブレーンで、ヤマト王権の財政を支えるスポンサーとして活躍していた。
600年代(7世紀)
大化の改新から「律令国家」の完成へ
603年
秦河勝が聖徳太子から仏像(弥勒菩薩半跏思惟像)を譲り受け、広隆寺を建立する。
645年
大化の改新(乙巳の変)。
中大兄皇子(のちの天智天皇)と中臣鎌足が、権力を握りすぎた蘇我氏を倒し、天皇中心の国づくりを本格化させる。
660年
中大兄皇子が「百済(くだら)の技術者」とともに、日本初の漏刻(水時計)を製作。
漏刻はもともと中国(唐)で発達した超ハイテク技術でした。これを日本で実際に形にしたのは、中大兄皇子の命令を受けた「百済の技術者たち(沙門・法蔵(ほうぞう)など)」です。
当時、唐や新羅(しらぎ)の脅威に対抗するため、日本を「中央集権的な強い近代国家」へと急ピッチで改造したかった中大兄皇子は、海外の進んだ科学技術をダイナミックに導入。それまで自然のサイクルで生きていた国民に、国が管理する「正確な時間」を意識させることで、社会を効率的に統治・コントロールしようと試みました。
663年
白村江(はくすきのえ)の戦い。
大敗によって百済は完全に滅亡。
唐や新羅の日本侵攻の危機に直面した朝廷は、急ピッチで国家防衛の体制づくりを始める。
665年
国防の強化と、百済の民の受け入れ。
百済の遺臣(亡命してきた軍事のプロたち)に指示し、九州(筑紫の大野城や基肄城(きいじょう))や山口(長門)に朝鮮式山城を築かせて防衛線を固める。同時に、百済の男女400人を近江国神崎郡(滋賀県東部)に移住させた。
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667年
都を近江大津にうつす
海上からの攻撃を避けるため、また百済の民らによって開発・整備が進められていた安全な内陸地・近江へと遷都する。
668年
天智天皇が即位。本格的な全国規模の戸籍「庚午年籍(こうごねんじゃく)」(670年)を作るなど、国家の基礎を固める。死の間際、藤原(中臣)鎌足に「藤原」の姓を授ける。
671年
新装した漏刻(水時計)で、日本初の「時報」をスタート。
人々に鐘や太鼓で初めて時刻を知らせる(現在の「時の記念日」の由来)。
660年に飛鳥で作った試作品の成功、そして白村江の敗戦や近江遷都という激動を乗り越え、天智天皇はついに新都の宮殿に「新型の漏刻」を完成させました。
これまで一部の特権階級だけのものだった時間を、「鐘や太鼓の音」によって全ての国民にオープンにし、全員を同じ時間軸で動かすことで、近代的な「律令国家」としての統治を完成へと導いたのです。
年末に天智天皇が崩御。
672年
壬申(じんしん)の乱。
天智天皇の後継者をめぐり、弟の大海人皇子(のちの天武天皇)が吉野で挙兵。息子の首長である大友皇子を破り、古代日本最大の内乱を制する。
600年代後半
勝利した天武天皇・持統天皇のもとで、国号が「日本」に、君主の称号が「天皇」に定められ、法律(律令)で支配する先進国家へと一気に完成に向かう。