
かねてよりずっと訪れたかった、滋賀県大津市にある近江神宮の「時計館宝物館」。先日、ようやく足を運ぶことができました。
湖西線に揺られてJR大津京駅へ。そこから京阪電車に乗り換え、「近江神宮前駅」で下車。のどかな景色を眺めながら、徒歩10分ほどで目的地に到着します。
近江神宮を訪れるのは今回が初めてだったのですが、アプローチの街並みがとても綺麗。ところどころに立派な日本家屋の門構えのお宅があり、思わず見惚れてしまいます。その日は5月なのに夏日で、神宮へと続く道を歩いていると、なんだか夏休みに小さな一人旅へ出かけているような、どこか懐かしい錯覚を覚えました。
今日は、そんな旅で見つけた、「常識」を心地よく揺さぶる気づきをお届けします。
朱色の神殿と、一変する空気

近江神宮の参道に一歩足を踏み入ると、それまでの暑さが嘘のように、青々とした木々の木陰が心地よい涼しさを運んできてくれました。すうっと透き通った空気に切り替わるのが肌で分かります。
参拝客もまばらで、とても静かにお参りしやすい雰囲気です。
「神宮」とは皇室とゆかりの深い由緒ある神社の社号だそうですが、有名な伊勢神宮と比較すると、どこか少し小ぶりな印象を受けました。けれど、鮮やかな朱色の建物が緑の木々に映えて、非常に神々しく、背筋が伸びるような美しさがありました。
一通りお参りを済ませ、いよいよお目当ての「時計館宝物館」へ向かいます。

和時計の文字盤に隠された「陰陽五行説」の謎
時計館での私のお目当ては、日本の職人技が詰まった「和時計」と、お香の燃える速度で時を測る「香時計」を間近で見ることでした。
「和時計は針ではなく、盤面のほうが回転する種類がある」と聞いていたので、実際に動いている様子を確かめたかったのですが、残念ながら展示されている時計は止まっており、そのカラクリをナマで見ることはできませんでした。しかし、それ以上に私が目をとめたのは、時計に表示されている「時刻の数字」でした。
文字盤の数字をよく見てみると、見慣れない、いやある意味見慣れた不思議なカウントダウンが行われていたのです。
| 十二支(時刻) | 昔の呼び名 | 現代の時間 |
| 午(うま) | 九つ(ここのつ) | 12時(真昼) |
| 未(ひつじ) | 八つ(やつ) | 14時 |
| 申(さる) | 七つ(ななつ) | 16時 |
| 酉(とり) | 六つ(むつ) | 18時(暮れ方) |
| 戌(いぬ) | 五つ(いつつ) | 20時 |
| 亥(い) | 四つ(よつ) | 22時 |
| 子(ね) | 九つ(ここのつ) | 00時(真夜中) |
| 丑(うし) | 八つ(やつ) | 02時 |
| 寅(とら) | 七つ(ななつ) | 04時 |
| 卯(う), | 六つ(むつ) | 06時(明け方) |
| 辰(たつ) | 五つ(いつつ) | 08時 |
| 巳(み) | 四つ(よつ) | 10時 |
現代のように「1、2、3…」と増えるのではなく、「9、8、7、6、5、4」と減っていき、真夜中になるとまた「9」にリセットされています。気になってその理由を調べてみると、これには古代中国から伝わった「陰陽五行説(いんようごぎょうせつ)」が深く関係していることが分かりました。
陰陽五行説では、奇数を「陽(縁起が良いもの)」、偶数を「陰」と考えます。そして、一桁の奇数の中で「9」は最も大きな数字であり、最高に縁起が良い『究極の陽の数字』とされていました。そのため、一日の基準となる最も大切な時間(真夜中と真昼)に、この最高峰の数字である『9』を配置した。
最高に縁起の良い「9」から始まり、時間が進むごとにエネルギーが変化して数字が減っていく。スマホのデジタル時計に慣れきった身としては、当時の人々の宇宙観や時間の捉え方の粋さに、ただただ感動してしまいました。
さらに江戸時代の時刻システムは、夜明けから日暮れまでを6等分して「1時(いっとき)」とする「不定時法」だったため、季節や昼夜の長さによって1時間の長さが変動するという特徴もあったそうです。自然のサイクルに人間が合わせていく、じつにクリエイティブなテクノロジーですよね。
宝物館の年表から浮かび上がる疑問
続いて2階の「宝物館」へ。ここには近江神宮の御祭神である天智天皇にまつわる宝物が展示されているのですが、私が目を奪われたのは、壁に掲げられていた詳細な歴史年表でした。
天智天皇が「漏刻(水時計)」を取り入れ、日本で初めて人々に鐘の音で時刻を知らせたという先進的なシンボルストーリー。その華やかな実績の裏側に敷き詰められた「660年代のリアルな記録」を細かく読んでいくうちに、私はある事実に目が留まり、知的好奇心をそそられてしまったのです。
私たちは本当に「単一民族」なの?
年表には、あの有名な「白村江(はくすきのえ)の戦い(663年)」の戦後処理がリアルに書かれていました。
日本軍は百済(くだら)とともに唐・新羅の連合軍に大敗するのですが、その際、命からがら逃げてきた多くの百済の民(難民・知識人たち)を船に乗せ、一緒に日本へ帰国しています。さらに驚くべきは、その2年後の記録です。
「665年、百済の男女400人を近江国神崎郡(現在の滋賀県東近江市周辺)へ移住させる」
「百済の遺臣に、筑紫国の大野城・基肄城や、長門(山口県)に城を築かせる」
現代の感覚でいえば、400人もの外国人の超エリート・技術者集団を一堂に移住させ、国家の最高機密である「防衛要塞の建設」や「新首都(滋賀)のインフラ開発」のコンサルタントとして丸ごと受け入れたということでは?
いま私たちが「日本の礎」だと思っている飛鳥時代の文化や仕組みは、日本人だけで作ったのではなく、これら最先端の技術を持った「渡来人」たちとタッグを組み、血と知恵を混ぜ合わせながら必死に作り上げたものだったのではないか……。
このことは、以前記事にした秦氏の歴史ともシンクロする世界線です。果たして日本は単一民族の国家なのかな……と、思いめぐらせました。
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おわりに
和時計や香時計を見にきたはずの小旅行でしたが、気がつけば近江神宮の境内で、日本のモノづくりの奥深いルーツに触れる旅となっていました。
文字盤に刻まれた陰陽五行説の粋な知恵、そして季節とともに時間を伸び縮みさせる「不定時法」という高度なからくり技術。私たちが誇る「和時計」という洗練されたテクノロジーの源流を年表で遡っていくと、そこには天智天皇の「漏刻(水時計)」があり、さらにその背後には、最先端のインフラや防衛技術をもたらした百済の技術者たちの姿がありました。
「日本固有の伝統技術」だと思っていたもののベースには、古くから海を渡ってこの地にやってきた、異国の賢人たちの知恵が豊かに溶け込んでいるのかもしれません。
アーティスト・作家|歴史や世界の深淵を読み解き、新しい生き方の景色へと翻訳することを私のライフワーク(しごと)としています。|詳細のプロフィールはこちら